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本心は決まっているはずなのに、ずるずると行動に移せていないコトがありまして。

今回、久しぶりにセッションを受けたとき、本心としては決まっているけれども、なんだかずるずると踏ん切りがつかないことをテーマにしてみました。

 

つまり、特にすごく悩んでいるというわけではないけれども、何だか心の片隅にいつもいて、気になっていることをテーマにしたわけです。

 

そしてセッションが始まりました。今回のメタファーは細かく説明しませんが、話しているうちにとても苦しい気持ちになりました。思い返してみると、意識としては大きな問題ではない、と認識していたことが、実は自分自身に大きな影響を与えていたのです。本当に息がしづらい気持ちを味わいました。

 

ファシリテーターが寄り添ってそのメタファーにしっかり向きあわせてくれたおかげで、それはだんだんと変化し、ゆっくりと息を吸うことができるようになりました。

 

そしてそのメタファーの変化は二方向に分かれ、一つはちっぽけな消し炭のようになって私の後ろの方に飛ばされ、もう一つは、私を押しつぶそうになっていたはずのものの片割れは私の体からは離れて、滑らかにキラキラと光を反射して私の目の前を照らすような反射板のようになっていました。

 

今回の体験から認識した私の感じた事、理解は次の通りです。

①気になっていることには必ず意味がある。

②過去に経験したことが形を変えて今、足枷になっている可能性がある(消し炭が後ろに飛ばされて、そこは私の「過去」の領域であり、元々それがいた場所と思えたことから。)

③気になっていることには意味があり、その意味は自分の人生の目的と繋がっている、こともある。(キラキラと前を照らしてくれるのは、自分が大切にしたい、人生を生きる上での目的と思えたことから。)

 

実は今回のセッションの開始のとき、ファシリテーターの方が最初に拾ってくれた私の言葉は「ずるずる」というフレーズでした。こうした一見明確な事柄や感情を表す言葉でない表現が、実は大事なのかもしれません。そこに付き合ってくださったことに感謝します。

 

何か気になると、とかく焦点がそこに合わされ、ということはそれだけ視野が狭くなってしまうのだ、ということにも気づきました。何となく気にかかっているだけのことと思っていたのですが、長引いているということはそれだけ長くその問題に執着していて、それに対する認識の幅が狭くなっている、固定化しているという可能性にも気づきました。これはクリーン言語によるアプローチの介在なしにはなしえなかったとこと。

 

日常生活を送るうえでは、とかく論理的に、問題も明確にして対処していますよね。しかしながら、もしかすると、自分で明確にできていないことに問題の核心があり、それはメタファーとして取り扱うことでこれまで思いもよらなかった解決を見ることもできるのだと体験しました。