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「クリーンな質問」はクリーンか?

当たり前のことを、再認識。「質問」がクリーンであるかどうかはその使われ方による。そんなことをあるセッション記録の勉強会から再認識し、思いかえすことがあったので、今日はその呟きです。

 

クリーン言語のセッションではメタファーを活用して対話を進めていくためのいくつかの独特な定型の「質問」がある。

初めの頃は、一般の対話との区別が自分でもしっかりついておらず、ファシリテーター(コーチ)として「使いにくいな」とか、感じていた。クライエントとしてセッションを受けた時にも。

 

そして、その違和感こそ、メタファーに集中し、メタファーの物語を紡ぐためのお作法をまさに習得、或いは慣れていく過程なのではないかと今は思います。

 

そしてクリーン言語のセッションにおいて大事なことのひとつは、メタファーの物語の結末、ゴール、或いは「こうなるとよい」というファシリテーター(コーチ)の想いでクリーンな質問を使わないことではないでしょうか。

 

通常のコーチングでは、ゴール設定をし、その達成のための一対一の対話が始まる。もちろん、「何が起こってほしいか」とクリーン言語のセッションでもゴールの設定はするけれども、初めにそれを確認したら、今現在は手にしていない、先にあるゴールを追いかけることは、しないということが個人的な理解です。なぜなら、設定したゴールそのものがゴールではない場合があるから。

 

デビッド・グローヴ氏が開発し、カイ・デイビス・リン先生からクリーン言語を学んだ私たちは、あくまでも自分の想い(ファシリテーターとしての)は持ってもよいけど横に置き、自分が考える、或いは「客観的、一般的」な「良き方向」、「ゴール」へ誘導するような質問の使い方はしない。そもそも見方が変わり、そのゴールが意味を持たない場合もあり得ます。同様にクライアントが口にしている「問題」にも固執しない。

 

そして個人的な意見ですが、あくまでも主役はクライアントのメタファーであり、クライアントでさえないかもしれない、ということを知っています。

 

事態を好転させるために、明るい面に目を向けさせるセッションも、ゴールを探求するセッションも、いずれもクリーン言語のセッションで使われる質問が有効なことは多いです。

 

でも、あくまでも転用。クリーン言語のセッションにおいては、「良い」「悪い」「役に立つ」「役に立たない」などの価値判断は不要、というかしてはならない、と思っています。でも無意識に、解決したいという思いが強いほど、「良い」方向へ導きたいという気持ちが出てきてしまうことも事実なので、自分に言い聞かせる必要があり、こうした呟きをしているのかもしれません。

 

例えば、芝生のメタファーがあったとして、どのような芝生か、そしてその芝生は何が起こってほしいかに価値判断を持ち込まずに聞いて、その固有の物語を発展させ、深めることのみに、クリーンな質問は使っていきたい。

 

もし自分に、「あたたかな明るい芝生の広場」となってほしいという思いがあっても、日が当たる必要は、ないかもしれない。日が当たらない芝生が「悪」ではないし、それはファシリテーターが決めることではなく、あくまで「芝生」がどうしたいか、何が起こってほしいか。解決の糸口はファシリテーターが探してくるものではないです。

 

クリーン言語のセッションであれば、こんな思いをもって質問を使い、クライアントのメタファーに価値判断持ち込まずによりそう、そんな謙虚な対応ができたらな、と思い、ずいぶんと長くなりましたが、つぶやいてみました。

 

あくまでも個人のつぶやきですが、みなさんは如何お考えですか?