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「クリーンな質問」はクリーンに質問してこそ、というつぶやき

クリーンの質問は使うけれども、聞き手が「こうなってほしい!ここに導きたい!」という意図を持ってしまうと、その瞬間にその場はクリーンではなくなってしまう。

(上記含めて個人的な見解です。)

 

クライアントが進む方向の手綱はあくまでクライアントが握るもの。

 

クリーンの質問は伴走である

 

クリーンの質問を使う人たちは、私も含めて、クライアントの問題が解決するように祈っている。ただ、セッションの場の主人公は自分ではない、ということを忘れないように私はしたい。

 

聞き手である私が、何らかの方向性への意図を持った瞬間に、クリーンではなくなる。

 

クライアントが何を感じているのか、それをどこで感じているのか。

 

質問は、それをクライアント自身が明確にするためにあるのであり、私が知りたいことを知るためでも、導きたい方向に向けさせるためのものでもない。

 

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解決策や解決の道筋、ステップを頭で考えるだけでなく、今ここに集中してクライアントが持っているリソースに目を向ける。

 

そして、クライアントが感じていることを具体的な形にしてみることで、そのリソースはより力をもち、活用しやすくなる。そのことを、クリーン言語を使ったセッションの中で、メタファーの活用として私は知っている。

 

何とかしてあげたいという援助の心を持った聞き手が、何とかしようと思えば思うほど、クライアントを自分の思いや枠組み、型にはあてはめてみて、その範疇で何とか解決の方向にもっていこうとする、という流れを私は経験してきた。実践してきた。

 

また、こうすれば上手くいく、というような成功体験、ネガティブな事柄と無意識に判断してその話題を避けること、思いこみ、などなど、様々な思いや考えが聞き手の私に立ちのぼっていたかもしれない。

 

なぜかというと、クライアントの言葉は聞き手に影響を与える。刺激を与えるからだ。

 

そして、そのような意図を持った聞き手からの質問は何を生むだろうか。

質問を重ねることで、問題解決への道筋をクライアントに言わせることができたとしても、クライアントが納得感や、十分に全てを検討したという気持ち、出来るという体感が伴わないのではないか。

 

するとなかなか行動への移行がスムーズにいかない。或いは続かない。

 

ありていに言うと、「すっきりしない」のだ。問題はまだ、ここにある。

 

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たとえクリーンな質問を使っていても、その場がクリーンでなくなることがある。

それはとてももったいないことだ。

 

同じクリーンの質問を使ったとしても、そこに聞き手の意図が働いたり、メタファーに関わらずに事柄だけでセッションを進めると、どうなるか。

 

クライアントにとっては解決のためのレールをどんどん敷いていくようだけれど、実感が伴わない。やれる気がしないし、それを果たして本当に心から望んでいるか?自分が口にしたかったのはこれなのか?

 

もっとも、ヒントは得られるだろう。「やっぱりこれが問題だ」という再認識。

だから、セッション自体が無意味であったというわけではない。

 

しかしせっかく、クリーンな質問を使うのであれば、その場もクリーンであってほしい。

 

今日はそんなつぶやきでした。