今回のセッションテーマは、「相手との関係性を保ちながら、身を引けるようになれたら」というものだった。
春は別れと出会いの季節というけれど、私にとっては季節を問わず直面するテーマです。
要は、嫌われるのが嫌なので、はっきりと断ることができない。断ることやNOと言うことが嫌われることに直結しないと頭ではわかっているけれど。
でも嫌われる可能性があると自分で勝手に思ってしまうから止められない。
どうしても勇気がいる。理由を整えることに神経を使う。
そんな状況に対して受けたセッションだった。
最初のメタファーは箱と紙
セッション冒頭のメタファーは箱だった。
おでこの前20センチほどの距離感に、銀色の箱がある。
その箱は中身を見せたがっていた。
ぱかっと宝箱が開くように蓋があき、中身は、くるくると巻かれた小さな紙で、黒い文字が書かれた手紙のようなものだった。その手紙を読もうとするけれど、箱に引っかかっている。
箱を傾けると、ひらりと出てきて中が読めるような状態になったが、黒い文字の連なりに見えていたものは、波線。しかもゆらゆらと動いているので、読むことができない。
その紙が広げられていたのは自分の目線のあたりのイメージだった。
次のメタファーは空間と絵
セッションが進むにつれて、別のメタファーが出現してくる。
2つ目のメタファーは白い空間だった。この空間は自分のみぞおち辺りの前の方にある。
その空間は広がりたがっていて、実際に広げることができた。
そしてそこに色とりどりの絵、木だの川だの花だのを描くことができる。
不思議なことに、書かれた絵は厚みを持って本物のようになっていく。
紙に書かれた揺れ動く黒い波線と好対照で、どっしりと根を張っているといえばよいか、実に存在感のある、生き生きとした感じが伝わってくる。
どんどん描いていきたいと思わせる広い空間だった。
3つ目のメタファーは石
石があるのは、みぞおちの奥。今度は身体の中だった。
キラキラと輝いているその石は、前方に光を発しているよう。
よく見てみると、みぞおちの前に広がっている空間に描かれている本物のように立体的な絵は、どうやらこの光が投影をしているように感じられた。
或いは、逆だろうか。
いずれにしても、関係性があることを感じさせた。
セッションは時間となってしまったので、また次回、この続きに取組めたらと思う。
そしてここまででも。大きな学びがあった。
メタファーを通して発見したこと
今回のセッションからの学びは、読むことができない文字(波線)を読めるかもしれないと一生懸命に見つめることではなく、むしろ自分の考え(白い空間)を充実させる(立体的な絵の世界)ことに注力しようと思ったことだ。
私はとかく、相手の思うような反応をしたいと思っている。しかし、相手の考えていることをしっかり聞くこともしないで、ああではないかこうではないかと一人頭の中で憶測する。
踏み込むのが怖いからだ。
一生懸命考えてばかりいるから、箱は頭部で、相手を見ている目線の先にあったのだろう。
そしてどんなに頑張って目を凝らしてみても、中に入っていた紙に書かれた文字を読むことはできなかった。
にょろにょろと動くので、ひょっとした何かの文字になるのかと期待してしまうと、目を離すことができなかった。
ところが、みぞおち付近の空間に描かれた絵はどうだろう。私の筆さばき一つで生き生きと世界が描かれていく。
この生き生きとした空間があるときに、感じた違いは歴然としている。他者の考えに執着する以前に、自分の世界を眼前に構築することが肝要だということだ。
今振り返って更に気づいたのは、石の読みは意思と同じ。そして私のメタファーの石がみぞおち、体の内面にあったことから、ますますその思いが強くなった。
メタファーは自分から出てきたものだからこそ、自分で気づいていないことを気づかせてくれる。
今回はうまく断れるようになれば、という主題だったが、まず自分自身の考えを、なんとなくではなくしっかりと構築することが先決という、当たり前のことに気づかされた。
「断る方法論」だけ考えても、きっと同じ悩みを繰り返すことになっただろう。
最後に
何度もセッションを受けていると、初めはメタファーそのものが浮かんでこなくても、だんだんと出てくるようになる。
自転車は訓練、練習すれば時間の差はあれど誰でも乗れるようになる。メタファーについても同じだと感じている。
そしてクリーン言語を活用したメタファーワークが興味深いのは、そのメタファー自体、同じようなものが出てくる段階を過ぎると、全く違うメタファーが出現するようになってくることだ。あくまでも、私の場合ではあるけれども。
今後もどのようなメタファーがどう変容し、私に何をもたらしてくれるか楽しみだ。
今回のセッション体験談は以上です。